A.山階鳥類研究所は、鳥類の研究を専門にしている研究機関です。故山階芳麿博士が1932(昭和7)年に山階家私邸内に設立した鳥類標本館が前身です。利用する研究者が増えてきたため1942(昭和17)年に文部省から財団法人の許可を得て、財団法人山階鳥類研究所となりました。1984(昭和59)年に現所在地である我孫子に移り、1986(昭和61)年には秋篠宮殿下を総裁にお迎えしました。2012(平成24)年には公益財団法人に移行しました。2024(令和6)年現在は所員23名が所属し、そのうち14名が研究員・専門員です。
山階鳥類研究所では、絶滅危惧種のヤンバルクイナやアホウドリなど、希少種の保全に役立つ研究を行っています。ヤンバルクイナは、1981(昭和56)年に研究員らが捕獲に成功したことで、山階博士と所員の真野徹が命名し、新種として発表されました。ヤンバルクイナは沖縄県北部地域に生息している鳥で、捕食動物であるマングースの北上により生息数が大幅に減少しました。現在、保全活動により生息数が増え、分布も広がっていますが、交通事故などまだ多くの危険があります。1991(平成3)年から保全活動をはじめたアホウドリは、繫殖地である伊豆諸島鳥島にデコイ(アホウドリの実物大の模型)を設置し、島の別の場所に繁殖地をつくることで生息数が増加しました。しかし、火山島である鳥島は噴火の危険性があるため、小笠原諸島聟島に新たな繁殖地を増やす活動をしています。
また、山階鳥類研究所は個体識別のための足環などを装着して情報を収集することで野鳥の移動や寿命などを調べる「鳥類標識調査」を環境省の委託で行っています。所員が各地で調査するほか、約400名の全国のボランティアがこの調査を行っています。1961(昭和36)年から現在までに610万件の標識データが収集されています。 山階鳥類研究所の標本や鳥類学に関する図書も、鳥類の研究に欠かせない基礎資料です。なかには絶滅鳥の標本や19世紀の博物学書などの貴重なものもあります。山階博士の標本館以降も継続して収集し、現在は標本8万点、図書・資料7万点、組織サンプル・DNAなど2万件を保有しています。このほか、山階鳥類研究所では研究論文を掲載する学術雑誌や、研究所の活動を紹介するニュースレターの発行も行っています。
A.1996(平成8)年に大学を卒業した後、山階鳥類研究所広報室に採用されました。2004(平成16)年から資料室への異動を機に標本の収集、維持管理を担当しています。ここで「標本とはどういうものか、どう管理するのか」を基礎から学び始めました。山階鳥類研究所の標本には古いものが多く、その中には著名な鳥類学者が収集したものや、今では絶滅してしまった貴重な標本もあり、標本の背景に興味を持つようになりました。北海道大学の加藤克先生のもとで標本の歴史を学ぶため、2013(平成25)年に北海道大学農学院博士後期課程へ社会人入学をしました。2022(令和4)年に同大学農学院を修了し、博士号(農学)を取得しました。
A.もともと動物が好きで、日本大学農獣医学部畜産学科に入りました。卒業論文でウグイスのホルモンの研究を行ったことが、野鳥に興味を持ったきっかけです。ウグイスの繁殖期のホルモン変化を調べる研究で、同じ個体を何度も捕獲して採血する必要がありました。しかし、野鳥は一度捕獲すると、捕獲道具や誘因の音声などを覚えてしまうため、二度目か三度目の調査で全く捕獲出来なくなってしまいました。困り果てて、ウグイスの音声の研究をされていた研究員の方へ話をうかがったのが、山階鳥類研究所との出会いでした。そこでウグイスのさえずり「ホーホケキョ」の「ホー」が高い時はリラックスをしていて、低いときは警戒状態であることを知り、ウグイスのさえずりに法則があるのかと、とても感銘を受けました。野鳥を観察する、研究する奥深さを知るきっかけをいただいたと思います。
A.資料室で標本の収集、維持管理の業務にあたることになり、主に標本材料の受け入れ業務を担当しました。現在も継続しています。鳥体の譲渡には法律や条約が関わっているため、希少種の受け入れや海外の博物館との標本交換などを行う中で、法律や条約でどう規制されているのか、法律や条約は常に改正されるので、現在も学びながら取り組んでいます。近年は、鳥インフルエンザで死亡した鳥体を想定しなければならず、場合によっては検査機関を勧めるなどの対応をしています。また、アメリカの博物館での標本管理に関する論文に触れる機会があり、アメリカの博物館へ視察にも行きました。当時、山階鳥類研究所では紙の台帳管理からデータベースで管理する移行期を迎えており、アメリカの博物館でのシステマチックな標本管理は大変参考になりました。現在は、関係する職員たちで試行錯誤した結果、鳥体の受け入れから、解剖、組織サンプルの採取、標本を作製して収蔵庫で保管し、標本データベースで公開するまでのシステムが整っています。このシステムは、国内の博物館などと比較しても自慢できるものだと思います。
A.大学院では東京帝室博物館(現・東京国立博物館、以後は帝室博物館)がかつて所蔵していた鳥類標本の歴史をテーマに研究を行いました。山階鳥類研究所では3,300点ほどの帝室博物館旧蔵標本を所蔵しており、なかには絶滅種の標本や、新種記載の証拠となるタイプ標本など学術上重要な標本が含まれていました。しかし、多くの標本ではだれがどのように収集したのかといった由来が分からない状況でした。私の研究では、標本台帳や標本ラベルなどの情報から、似ている由来の標本を見つけて標本群を作り、その標本群の特徴を手がかりに文献や資料を調べる方法をとっています。そのなかで、南鳥島産の標本は、帝室博物館の標本台帳から1902(明治35)年と1903(明治36)年に複数の寄贈者から集中して寄贈されている、という特徴が見出されました。この年代に何があったのか調べていたところ、北大の加藤先生から、平岡昭利先生が書かれた著書「アホウドリと「帝国」日本の拡大」(2012年、明石書店)の中に、1902(明治35)年に起きた「南鳥島事件」について詳しく書かれていることを教えていただきました。南鳥島事件とは、1902(明治35)年7月にアメリカの帆船が南鳥島の統治とグアノ(海鳥等の糞などが長期間堆積したもの。肥料資源として利用される)採取を目的に出航したことを、日本政府が察知して軍艦を派遣し、南鳥島が日本の領土であることを説明して帰国を促した事件です。この時、アメリカの帆船に乗船していた一行は、海軍から1週間の滞在を許可されました。乗船していたハワイ・ビショップ博物館のブライアンはこの間に島の動植物相の調査を行い、翌1903(明治36)年に報告書を発表しました。この報告書は、今では明治期の南鳥島の動植物相を知る貴重な文献となっています。
A.南鳥島産標本は、1902-03(明治35-36)年に帝室博物館に寄贈されました。1923(大正12)年に発生した関東大震災で国立科学博物館(当時は東京博物館)が全焼し、標本が全て失われてしまったため、帝室博物館の自然史標本の多くは国立科学博物館へ移管されました。また、一部の自然史標本は学習院に移管されました。山階鳥類研究所の帝室博物館旧蔵標本は、第二次世界大戦後に学習院から移管されたものです。台帳の登録数によると、帝室博物館の鳥類標本の規模は、5,000点ほどで、このうち関東大震災後に残った標本は4,000点ほどでした。山階鳥類研究所には関東大震災後の約8割の3,300点が保管されているので、帝室博物館の鳥類標本の大部分が現存していたことになります。
A.南鳥島産鳥類標本は、国内では111点を確認しています。山階鳥類研究所には、帝室博物館旧蔵標本26点以外に、ビショップ博物館に由来するブライアン採集標本1点、東京帝国大学に由来する南鳥島事件関連標本3点、鳥類学者・松平頼孝(よりなり)のコレクションから1910(明治43)年前後に採集された標本12点、戦後1952(昭和27)年に元所長・黒田長久が南鳥島を調査した際に採集した標本18点、気象庁の職員・藤沢格が採集した標本1点、島津製作所から購入した標本1点を所蔵しています。また国外では、ビショップ博物館にブライアンが南鳥島事件で持ち帰った標本44点が所蔵されています。これらを合わせると、国内外で合計155点の南鳥島産鳥類標本を確認しています。
A.帝室博物館旧蔵の南鳥島産標本11種のうち、島で繁殖していたのは8種でした。このうち、近年の調査で3種の繁殖が確認されているので、5種の繁殖集団が南鳥島から消滅してしまったことになります。
標本と同時期の1902(明治35)年のブライアンの調査では、11種のうち8種の繁殖が確認されました。しかし、戦後1952(昭和27)年の黒田長久の調査では、明治時代の乱獲や第二次世界大戦中に主要な軍事基地だったこともあって島の環境が激しく悪化し、クロアジサシ、セグロアジサシの2種のみの繁殖が確認されました。その後、1992-93(平成4-5)年の気象庁職員・河原恭一氏の調査では、これまで繁殖が確認されていたクロアジサシ、セグロアジサシ以外に、アカオネッタイチョウの繁殖が確認されました。2007(平成19)年の森林総合研究所・川上和人氏の調査でも、クロアジサシ、セグロアジサシ、アカオネッタイチョウの3種の繁殖が確認されたほか、標本の11種以外になりますが、コアホウドリの営巣が報告されました。今後、繁殖する鳥種が増えるのではないかと期待しています。
A.歴史を解明する調査はとても楽しいです。台帳や標本ラベル、さらに資料や文献をたどっていくと、数々の情報が集まります。その情報同士がつながって、最後にストーリーになるのですが、情報同士がつながる瞬間はとてもワクワクします。逆に苦労するのは、そのストーリーを論文にして出版することです。理系の研究は仮説を立てて実験などをしながら検証していくのが一般的ですが、私の調査だとまずは情報を集めて、集まった情報でストーリーを組み立てていくので、理系の形式で論文を書くことに苦労しています。出版までに時間を要することも多々ありますが、これからも研鑽に励みたいと思っています。
A.標本の羽色を観察し、頭部、翼、尾羽、脚の長さを測定し、これまで知られている種の羽色と特徴が一致するのはどれか、測定値が近いのはどの種かを比較して判断しています。
A.標本は人が集めているものなので、1点1点に収集された背景があります。山階鳥類研究所には、19世紀から現在までの標本を所蔵しており、時間の経過とともに絶滅してしまった種もあります。標本の背景を明らかにすることで、あいまいだった採集時の情報を復元し、標本の科学的価値を向上することで、ひいては科学研究の貢献につながると思っています。明治期の南鳥島産標本の背景を調べる前の私の南鳥島のイメージは「絶海の孤島で資源が乏しく、飛来する野鳥も限られている」というものでした。しかし、イメージとは真逆で、明治期の南鳥島は多種の海鳥が生息する資源豊かな島でした。私の研究では、明治期に南鳥島で採集された海鳥標本の存在を明らかにしました。そして、これらの標本は「明治期は多種の海鳥が生息する資源豊かな島」だったことの証拠になります。それがこの研究の大きな成果だと思っています。
A.南鳥島の鳥類相は、明治期には11種の海鳥が繁殖していましたが、海鳥の乱獲、戦時中の環境破壊を経て、戦後の調査で繁殖する海鳥は2種にまで減少してしまいました。戦後から2007(平成19)年までに3種の繁殖と1種の営巣が確認され、繁殖する海鳥が増えていたことから、かつて繁殖していた海鳥が戻ってきているのではないかと期待しています。南鳥島は国内では唯一、熱帯の海鳥シロアジサシやコミズナギドリが繁殖していた島でした。今後、南鳥島の定期的な鳥類調査がなされ、都民、国民の皆さんへ南鳥島の鳥類を知っていただく機会になればいいなと思います。
また、明治期の海鳥の羽毛採取で、絶滅寸前まで追いやられた象徴的な存在がアホウドリです。山階鳥類研究所では、1991(平成3)年からアホウドリの保全活動を行っています。一度は絶滅したとまで言われたアホウドリですが、保全活動が実を結び、現在は7,900羽まで回復しています。しかし、まだ絶滅危惧種から脱していません。毎年、研究員がアホウドリの繁殖地の伊豆諸島鳥島、小笠原諸島聟島で保全活動を続けていますが、いずれも定期船がない無人島のため、費用の工面に苦慮しています。アホウドリの絶滅危惧種からの脱却に向けて、ぜひ皆様からのご支援をいただければ有り難いです。